昭和58年08月23日 月次祭
天地の親神様の御加護の中にある私達ですけれども、金光大神のお取次ぎいわゆる、金光大神の祈りに支えられておる私達、それをまた身近に表現するならば。まぁ合楽では私なり若先生なり、また皆さんの事をお取次ぎなさる、先生方の祈りに支えれれて、私共があると言う、自覚に立って信心をさして、祈られておる私し、願われておる私し、始めてそこから信心も出来ませんのに、おかげを頂いてというおかげにもなってくるし、また信心もすぐ、起点としての信心じゃないと育ちません。
いわゆる我行では育ちません、今こちらね出る時に今日の御話しを御願いさして貰いましたら、砂漠にサボテンが一杯こう生い茂っている所、そしてまぁ見事な花を咲かせておる様子をご心眼に頂いたんですけれども。サボテンと言うのをまぁ私し流に解釈すると、人偏んに左合楽の事ホは保つ、テンは天地の天いわゆる合楽に祈られてある私共だ。親先生の祈りの圏内にある私達だ、と言う是を信じてその自覚に立って一日が過ごせれる様になると、有難いと言うのがもっともっと有難くなって来ると思うです。
だからこれは信心があろうがなかろうが、天地の御恩恵に浴するのですけれども。その天地の御恩恵も又教祖金光大神の、ご出現によって私共は、取次ぎ助けれる道を開いて下さった。いわゆる金光大神に祈られておる私達。親先生に祈られておる私しと言った様な、本当にあのう親先生なかりせば、今日の私し私し一家はございませんと言った様な、あぁまぁ取次ぎをよくさして頂く事がございますけれども、それが本当に実感としてね。生きとしていけるという、まさにサボテンと言う事から感じた訳でございます。
今朝から若先生がやって参りまして、今朝は御理解に、神の一言は千両有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ程の神徳がある。有難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬはどの神徳がある。そういう今朝からの御理解でしたかいうのです。私はそれをきいて、あら、私が今朝御祈念中に頂いたのもそんな事だったがね、もう30数年前まぁ修行の一番激しい修行を頂いている頃、もうどうにも出来ない難しい事があった時に。私はありゃ今の鎮西橋のたもとででしたから、それを覚えておりますが。
はっきりと頂きましたのが、「死んだ気で勉め励めよ徳もつく道も開ける人も助かる」というお詩でした。これは30数年前頂いて、皆さんも何遍もお聞きになったことだと思いますけれども。例えばこの御教え一つが、いうならばまぁいつの場合でも、私しの信心を支えておると、これは私しの信心を支えておると言う事になりますでしょう。今朝から私しちょっと心に不足な事を感じ思ったんです。そしたら神様が御神願に首と言う字を、首ね、そしてそれを流すような感じでしんにゅうのさぁとこう頂く。
道という字になりますよね。首を流す私それでふっとして、はぁほんとに首があってのことなんだ。命があっての事なんだ。いえその事が有り難い訳ではなくて、ここんところが芯だけれどもと思ったその瞬に間ですかね、私しの心の中にあった不足のようなものが、反対にお礼を申し上げる心に変わってまいりました。私の信心を30年間支えて、これは信、いよいよの時はもう死んだ気で死んだ気で縋れ。「それこそ天に任せて地に縋れ。」任せ切る。これは不思議な不思議な働きが起って来るもんです。
そこには我情もなからなければ、我欲もない死んだ気で死んだ者が文句をいう筈もない。とにかく死んだ気でと言う事は、不足が言わばあっても不満があっても、それを消してしまってそれを有り難いものに変えてくれるだと。その心がおかげを受ける受けものです。ですから最近若先生が口を開くと、受け物信心おかげの受け物と言う事をよく申し上げますが。はぁ本当に確かにおかげの受け物はね。
私はそういう時その時その時に教えが生き生きとして、それこそ我を救える合楽理念と誰か、どっかの先生が仰ったようですが。我を救える合楽理念が理念がそういう時に、もう閃いてくる、とたんに心は不平どころか不足どころか、有り難い心になる。それもね、もう絶対そういうおかげを受たではなくて、もうこりゃ駆引き恐らく私しの生涯この御教えが私しを支えてくれることでしょう。腹立てば心の鏡が曇るとこう仰せられます。曇った鏡にはおかげは映りません。
ですからおかげを受けるためにも、心はいつも平常心でなからなければならない。ま、喜びがなからなければならない。昨日皆んな子供達」は、午後の4時のお引けを終わって私の部屋にやってまいりまして、今日御本部からこういうものを送ってまいりましたと、こんなに厚い、こんなに大きい御本です。それを今度金光図書館で合楽から出ました、この頃、一切信愛論というあの御本を、そういう厚いの本3巻にまとめて、天の省、地の省、円の省と言った様な。
天の省だけが出来上がったからというて送って来たのです。もうこんなに厚いです、それは盲目の人達が点字の勉強をしてます。点字の読める人には読める、御本になっているんです。だから合楽の先生にこの御本を確認して下さいというのです。私しはその御本を本当にありがたいなぁ、合楽で頂いておる御教えがそのまま、日本中の目の見えない方達に無料で貸し出す事になるんだそうです。
そういう天地の御用を本部でなさっておられる方が、いくらもおありになりますが、それがまぁ合楽の本が取り上げられておる。私はその御本をこう手に持って私御祈念をさせて頂いておりましたら、あのお弁当なんかによく使います。昆布をこう巻いてこう結んであのうのがございます。何というでしょうか。まき昆布というでしょうか。それを頂くんです。そういう御本になったと言うだけではなくて、それを読む人をして助かって貰わなければ、いうならば喜びに繋がっていかなければならないと。悟りました。
その結び昆布を頂いてね、喜びに結ばれていくのだ、ただ立派なご本が出来たと言うだけではない、そこでなら合楽の皆さんの場合でもそうです。お話しを頂いたと言うだけではなくて、そこに喜びがある、いや喜ぶに繋がっていかなければならない。今日私し久し振りで久冨さんの手を引かれて、こう散歩、歩く稽古をさせて頂きました。もうこの辺まで来ましたらはぁもう腰が切れるごたある。それでそこまで車で迎えに来てもらって、車で帰れせて頂き丁度出合い頭に、そこで藤島さんにお会い致しました。
もう私しの顔を御見るなり喜んで、はぁ素晴らしいタイミングの中に親先生にお会いした。私はこの喜びだと思うんです。合楽にお参りをした。合楽に御縁を頂いておるという事は。しかもまぁこんな事をいうては、まぁおこがましいですけれども、まぁ親先生の日夜の御修行と、日夜の祈りの中にある私し。是はね私し押し付けていうのじゃない、こういう心にならんとねおかげにならんです。私が参った私が修行した私が御願いしたと言うだけではね、いわゆるお取次ぎの働きと言うものを身に頂けれる感じ。
日夜親先生の祈りの圏内の中にあるんだ、そして今日のその藤島さんじゃないけれども、たまたま私しと出合い頭にそこの所で会ったと言う事、はぁあもうおかげを頂いたというてまぁ喜ばれる。そういう喜びがに繋がる。巻昆布である、ですからどうでも一つ今日皆さんに聞いて頂きました、ね。死んだ気でてあとる大変難しいんだからそれを本当に、一時とる死んだ気で死んだ気でと言うておる事もなかなかでまぁございますけれども。本気でしようしようと思やぁ出来ますね。
もう30年も前でしたが、今は誰も参って来ませんけれども、椛目の上の吉木というところから沢山参って来ました。あちらでお祭りをしてくれというので、まぁ大変な雪の日でしたが歩いてあちらまで参りました。あの時分は食糧事情も大変悪い頃でしたけれども、ご心配を皆さんがしてもう見事なうどんを作って、それにまぁいろいろ竹輪、蒲鉾、いろんないっぱいこう具をいれて、そしていったらすぐ熱いところを早くあがって頂こうっていうて。うどんを出して頂きました。
そりゃ真っ白な見事なうどんでした。ところが美味しくなかった。というのがスメが入ってなかった。けれども私は丁度その当時自分に、死んだ気でと修行させて頂いとるじゃから。死んだもんがスメが入っとらんてんなんてん言わん、だから殆ど頂いてしもうた所、遠くから勝手の方で「あらぁスメば入れるとば忘れとった。」ち。言いよんさるだから、やろうと思えばそんな事も出来ます。だけどそんな事までちゅ事はない。
なにかそこにおかげの頂けない心がむくむくと心に起ったり、騒いだり不安であったり、心配であった時にです、ここが死んできでたと、心配がなくなります。不安がなくなります。不足なども本当になくなって反対に、お礼を言う心がそれも一遍にじゃないけれど段々稽古して行くうちに、それが本当だと言う事が分り、そう心の中にいわば平常心、安心又は喜びの心というものが段々育ってまいりますから、これには絶対のおかげが伴のうて来るんです。おかげを頂くから楽しいというわけじゃないけれども。
そういうおかげの受けれれる心を、神様は作って下さろうとしておる働きを、腹を立てたり不足をいうて、また不安心配の焦燥で、それを薄いものにしたり無くしたりして惜しいでしょう皆さん。折角豊かな受け物も、豊かな心も作って下さろうとするのでございますから、日々の中にそういう時だけでもです、始めからお礼をいう心やらあんまりこの、死んだ気で黙って我慢してと言う我慢じゃないです。教えをいうならば身を持って、心を持って行ずるということです。
ですからその教えが血・肉になっていかないはずはない、血・肉になればそれがそのままおかげが受け物です。今日は私しが今朝から体験した事を、もうまぁ聞いて頂いた訳ですけど。どうでも一つ皆さんね、喜びに繋がる、かすかに繋がるお参りの仕方信心。喜びに繋がるお話の頂き方。ためにはやはり今日は御月次祭を勿論頂くと言う、ただ御礼参りをすると言うだけではなくて、もう今日一日はね、その頂いた御教えを本当にこなせれる心、有り難く頂く事の出来れる心を、心掛けさしてもろうてのお月次祭。
そしてそれをバッチリ頂いて帰ると言う事が、有り難く頂くことになるのす。有り難く頂いて帰ればおかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。今朝からの若先生の御理解だとそうです。私もそれとまぁ同んなじ様な意味の、30年前に頂いた、死んだ気で励め務めよと、道も開ける人も助かるという、30年間がこう段々広がりに広がって今日の合楽でございます。ね。いよいよのときにはですね、この死んだ気でこれは教えを行ずることで、もう私が黙ってさえおればええ。
という黙って修めるじゃなくてね、教えを行ずると言う事なのですから、黙って修めると言う事も、黙って教えを言うならば行ずる辛抱力をつくって、それがいよいよおかげの受け物をいよいよ大きく広く深く、しかもこれは私しが今朝から思うと、本当にこの御教えが30年間私しを支えてくれた、これからも又支えてくれることであろう、成程船にも車にも積めぬほどの神徳があるということが分りますね。
どうぞ。